昨日、大急ぎでRaw現像やらソフトだののことを書いてしまいましたが、本来は撮った時点でどれだけ写っているか!?というのがカメラとしての有り様なのではないかと思うのです。ということで今回はDfが撮った時点で吐き出してくるJPG画像をそのまま利用。何というのか、特に露出的なこととか発色に関してはほとんど何も触る必要性が無いというか、見たまんまのイメージで出てきてるというのが凄いとでも言いましょうか。
真っ赤なVWが静かに佇んでいた。快晴の空の下に映える色鮮やかなレッドカラーのクラシカルな顔つき。そして到るとこに配置されたクロームの美しい輝き。撮り手が下手な以外はカメラに全く隙が見つからないとでも言いましょうか。(AI NIKKOR 50mm f/1.2)
さぁ、ぐっと近づいて見るんだ!もっと!もっと近く!ということで未来の種を発見。小さな小さな未来がそこに隠れているのでした。構図的にはピンはもっと手前が正解なのかもしれません。が、欲しかったのは奥目に隠れるようにして陽を浴びていた小さな命の方。開放F値1.2のレンズを開放にして世界を惑わしてみる。(AI NIKKOR 50mm f/1.2)
さぁ、祈ろうではないか。これから先やってくる未来について。人の数だけ未来がそこにあるのだ。そして日々、時間と共に未来は増え続けていく。(AI NIKKOR 50mm f/1.2)
そうか、この先に未来があるのか。稲荷信仰の象徴でもある朱のトンネルの先に何を見るのか…。伏見に通じる道がここにある。(AI NIKKOR 24mm f/2.8)
そして1年の役目を終えた願の終を前にして尚も願わずにいられない人間の性よ。これがヒトというものの生き方なのだ。そしてまた未来に同じ光景を繰り返していく。(AI NIKKOR 35mm f/1.4)
神社からの帰り道、橋の袂にいる永遠の命を手に入れた鵠(くぐい)がこちらを見て言った。「何も変わらない、今も、これからも」。陽は昇りそして沈む。川は流れ時間は過ぎ去って逝く。(AI NIKKOR 50mm f/1.2)
新しい命はすぐそこまで来ている。あと三つきもしない内にそれは咲き誇るだろう。世の中全てのものを白とピンクで埋め尽くしてしまうがの如く…。(AI NIKKOR 50mm f/1.2)
銀塩フィルム時代の撮影と比べ、今のカメラの測光精度や映像化技術の凄さをまざまざと見せつけられる思いがする。撮影する際にほとんど露出の補正が必要無いレベルなのだ。それこそ本当に構えてピントを合わせ、思う被写界深度に合わせて絞りを決めると大抵の写真は見ている景色がそのまま出来上がってくる。実のところ、家に帰ってからあれやこれや処理する必然性が全くと言ってよいほど無い。とにかく目に止まったものをバンバン撮っていけば良いのだ。なにも考えずとも悩まずとも良いのには恐れ入る。ただひたすらシャッターを押すことだけを楽しむ。
世の中に大急ぎで流れていく時間の一瞬を切り取る曲芸が溢れる中、ゆっくりと澱み止まっている時間をキャンパスの中に落としてゆく世界を実現してしまったDf。そしてそれこそがDf流の楽しみ方なのだと思い知らされた今日この頃なのでありました。
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