月曜の20日は岡山の美作方面へ。そのまま津山へ出て衆楽園と津山城跡を目指す。姫新線という聞き慣れない超ローカル線に揺られて津山駅へ出ると小雨交じりの生憎の天気であった。
Nikon 1 V3 + 1 NIKKOR VR 10-30mm f/3.5-5.6 PD-ZOOM
いやはや、それにしても凄いところを走ってるもんだ。それに電車ではなく気動車、たった1両のみのワンマンカーである。地方になると社会の足はもっぱらクルマになってしまうのでこういった鉄道の需要というのはもの凄く低くなってしまうのであろう。辛うじて通学用途でしか残る理由が無くなってしまっている。それでも2時間に1本のペースで便はあるのでJR様々なのだ。
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津山駅から歩いて20分ほどのところに衆楽園という公園がある。岡山と言えば後楽園(後ほどこちらにも行く予定)が有名なのだが、この津山にも衆楽園という規模は小さいけどそこそこの庭園後が残っているのだ。その敷地の大半が蓮池になってしまっているが、それでもそこかしこに手の入れられている木々が配置されており、始まったばかりの紅葉も少しだけ楽しめた。
衆楽園を程々で切り上げ、駅から歩いてきた道を少し戻ると津山城跡がある。鶴山公園という名前になっているのだが小さな山がまるまる城郭になっているのだ。道を歩いていて山を見上げると、中腹から上は全て石垣が築かれその規模の大きさに圧倒されるのだ。
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山に少し登った中腹から見上げても1枚の画に収まりきらない広大さなのだ。とにかく広い、広いのだ。後に天守跡に登った時に『5層建築城として日本最大級であった』という説明があったが、その城に恥じない巨大な城郭なのだ。
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実は当初、この津山城跡は予定に入れていなかったのだ。跡、と言うぐらいだから石垣だけなのだろう…と勝手に思っていたのだが、下の通りから見上げて何やら上物が建っているのを見つけてしまった(この時はよく分かっていなくて、すわ!天守か!?と思ってしまった)のだ。そんなことで急遽、登山を始めてしまったのである。
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そんな訳で1段がかなり高い石段を何段も上がりやっと山頂の本丸跡地に到着なのだ。それにしても広い。やもすると大阪城並の規模なのだ。上の画では正面が天守跡、左の切れているあたりに備中櫓がある。
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近年、精密に再建された備中櫓。残っている資料を基に中まで厳密に再現しているとこのことなのでなかなか楽しみなのだ。中は畳敷で造りも当時の造りを再現しているので、他の城にありがちな側だけの見てくれではなく、内部の構造や部屋割りまでしっかり見て回れるのが凄いところ。
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櫓…というからにはちゃんと弓狭間と鉄砲狭間完備である。櫓、とは現代風に言うと、張り出し要塞みたいなもの。外敵を迎え撃つための角地や要所に設けられた迎撃用の要塞なのだ。なので弓と鉄砲で下界をちゃんと狙える様になっているハズなのである。ただ、弓狭間の位置が現代人の体格をもってしても少し高めな気がする。この狭間の高さで現代より平均身長が低いと言われる当時の人が弓を引くと正面から上にしか撃てない気がするのだが…。試しに弓を引く風を装ってみると、身長170のわたしですら矢は正面にしか放てない。真下は撃てないのだ。この辺は少し残念ポイントか。
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それでも備中櫓の1階はこんな感じでいくつもの部屋に別れ襖で仕切られている。当時の守備担当の武士達がここに詰め、若しかしたら生活していたのであろうと想像できるのだ。
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櫓の2階は割と広めのこの1部屋のみ。奥まったあたりに1段高くなっているところがあるのでここが櫓の隊長さんのポジションなのかもしれない。ここから指示を出すわけだ。
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櫓を堪能した後は天守閣の石積だけとなってしまった跡地に登ってみる。4辺が同じ長さの正方形をしていて、石積は現存していた当時のまま、内側の石段は解体後に設けられたものらしい。説明書きによると、天守閣は明治7年から8年にかけて解体されてしまったとあるが、他地方の城同様、木材は薪にさてしまったのかもしれない。その後、ハリボテ(トタン張りだったらしい)が再建されたものの、空襲(太平洋戦争時)の目標になりかねない、という理由でそれも解体され現在に至るとのこと。
何となくではあるが、この天守閣の再建も目指している風な動きがあるっぽい?ので頑張って再建して欲しいなぁとか勝手に思っちゃってたりします。備中櫓同様に天守も巷に多い鉄筋コンクリート造りじゃなく、当時の構造そのままで再現されると嬉しいなぁと思うんですけど。
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